東日本大震災の被災地の沖合から米海軍第7艦隊による救援活動「オペレーション・トモダチ(トモダチ作戦)」の話題には、勇気と無償の支援は率直にうれしい。 その影での自衛隊による被災者支援活動は、被災地の様々な所で「最後の砦」として、隊員はその重みを感じながら黙々と働いている。「温かい食事は被災者に。」炊き出しで温かい汁ものの食事を被災者に提供しても隊員が口にするのは冷たい缶詰の食事をする。
「わが身は顧みず、何ごとも被災者第一」の方針を貫く。すでに肉体的、精神的疲労が蓄積しているが、22カ所で入浴支援も行っていても汗と泥にまみれた隊員は入浴もままならない。 派遣2週間、疲労は極限 部隊交代が課題 派遣された自衛隊員の心身の疲労はピークに達し、部隊の交代が課題になってきた。東北地方の被災地に派遣されている自衛隊は陸海空合わせて26日現在、約10万7千人。実員22万8500人(2009年3月末現在)の半数近い。阪神大震災では、ピーク時でも約1万9千人だ。 3自衛隊の中で最多の7万人が派遣されている陸上自衛隊。多くは屋外の天幕で仮眠をとりつつ作業にあたる。被災者に温かい食事を提供したり、入浴させたりする一方、乾パンやレトルト食品でしのぎ、入浴も派遣2週間で1回、という隊員が多い。
仙台市沖。21日、海上自衛隊の護衛艦「くらま」の甲板から、灯油のドラム缶をロープでつるしたヘリコプターが飛び立った。行き先は、牡鹿半島の沖、網地島だ。 被災地に物資を送るため、自衛隊は保有する大量の物資を提供した。ご飯の缶詰、飲料水、毛布……。だが、時間の経過とともに被災者の要望は変化していく。食料や水が足りれば、ふだん使っている日用品も必要になってくる。 「ニーズを掘り起こせ」。司令部はそう指示を出している。物資を輸送したときは「これから持ってきてほしいもの」を聞き出すのが隊員の役目だ。陸自の女性隊員も避難所に行き、女性たちから要望を聞く。「化粧水がほしい」との声もあがった。 だが当初は輸送先の情報が足りず、テレビ映像を頼りにした部隊もある。目を皿のようにしてテレビ画面から避難所の場所の手がかりを探した。それでも被災者からは不満も出る。大規模災害では情報が決め手。多くの関係者がそう痛感している。 予期していなかったのは遺体の搬送。宮城県東松島市、石巻市から要請を受けた。自衛隊幹部は「物資輸送と違って敬意と丁重さが必要。支援に向ける人手が割かれるのでは」と打ち明ける。 ■米軍も支援 将校ら調整 大規模支援を買って出た米軍を鼓舞させたのも、そんな自衛隊員の姿だった。《米軍は初めは様子見だったが、自衛隊が命をかけて任務を遂行するさまを見て本気になった》 「災統合任務部隊」(JTF―TH)。被災地救援のために編成された特別の部隊だ。陸自の君塚栄治・東北方面総監を指揮官として全国の陸・海・空の部隊が結集した。派遣総数10万7千人、ヘリ約200機、固定翼機約300機、艦艇約50隻。これだけの規模を1人の指揮官の統制下に集めた例はない。 米軍も空母ロナルド・レーガン、強襲揚陸艦エセックス、大型輸送機を繰り出し、輸送や捜索を支援している。 司令部が置かれた陸自仙台駐屯地の一室には「日米共同調整所」が開設された。震災の3日後から朝夕2回、自衛隊の幹部、沖縄に駐留する米第3海兵遠征軍の将校ら数十人が、部隊展開を映すスクリーンを見て会議をする。 物資を空輸しても要望に合わなければ意味はない。避難所までの陸路も問題だ。当初は、持ち込まれた物資が輸送拠点で滞ることもあったという。任務部隊の幹部は「初めての事態で、まだ経験が足りない」。別の幹部は「侵攻してくる敵か、災害か、の違いはあるが、態勢は『有事』とまったく同じです」と語る。 東京電力福島第1原子力発電所では被曝(ひばく)の恐怖に臆することもない。17日からの放水活動の口火を切ったのも自衛隊だった。直後に米軍が放射能被害管理などを専門とする部隊約450人の派遣準備に入ったと表明したのは、米側が自衛隊の「本気度」を確信したからだといわれる。 ある隊員は、《自衛隊にしかできないなら、危険を冒してでも黙々とやる》《国民を守る最後の砦。それが、われわれの思いだ》 きょうも自衛隊員は被災者のそばにいる。