■脳内ホルモン探索
体の中では、まだ解明されていない機構や今の科学では説明できない現象が数多く起こっている。寒川所長は未知の生体システムを解明しようと、脳だけでも約40種類、心臓などほかの臓器を含めると50種類以上の新しい物質を発見してきた。世界的にもまれにみる相次ぐ成果に、研究者仲間からは“ホルモンハンター”の異名をもつ。
ハンターの歴史は苦難の連続だった。助手、助教授時代を過ごした宮崎医科大での研究テーマは、脳内にある未知のホルモン探索。「まだ脳のことが何も分かっていないころでやりがいがあった」。しかし、苦労して数十種類の新しいホルモンを見つけても未解明の部分が多く、脳にどんな作用を及ぼしているかが分からなかった。
転機は昭和59年。心臓から利尿や血管拡張の作用を持つホルモン「ANP」を発見したのだ。「まさか、筋肉でできた臓器からホルモンが分泌されるとは想像もしなかった」と当時を振り返る。この発見で、心臓が単なる血液を運ぶポンプではなく内分泌器官であることが分かり、これまでの常識を覆したのだ。
寒川所長の名を揺るぎないものにした「グレリン」を探索するきっかけは、平成8年、アメリカの製薬会社の研究チームが発表した論文だった。内容は「成長ホルモンの分泌を調整する新たな受容体の発見」。論文執筆者として40人が名を連ねていたが、物量作戦のアメリカでも受容体に結合する物質までにはたどり着いていなかった。
■新ターゲット探し
成長ホルモンを促進させるものがあれば、老化を食い止めることができる−。世界で熾烈(しれつ)な競争が進む中、寒川所長らも早速物質の探索を始めた。ターゲットは脳だ。多くの脊椎(せきつい)動物は脳下垂体からホルモンを出し、脂肪の分解やタンパク質の合成など重要な働きを調節している。そのため、成長ホルモンも脳からの分泌であると信じられていたのだ。
しかし研究を始めて2年が過ぎても、物質は見つからなかった。寒川所長は、ないと思われていた心臓からANPを見つけ出した教訓から、「脳にあるというのは医学上の迷信かもしれない。これだけ調べ尽くしたのだ」と確信し、新しいターゲットを探した。
ラットの心臓や肺、胃などをすりつぶして得た物質が、成長ホルモンの分泌を促す働きを持っているかどうか一つ一つ調べあげ、その結果、11年3月、誰も想像していなかった胃から、探していた物質を見つけた。
■「グレリン」を発見
世界との競争に勝ったことで、研究所は沸いた。だが寒川所長は「物質の構造が特定できるまで慎重にいこう」と研究員らに指示。その後、人間の胃の中にほぼ同じ構造を持つ物質があることも突き止め、成長ホルモンから由来する「グレリン」と名付けた。
発見から約半年後、論文を米科学誌「サイエンス」に発表すると、先に受容体を特定していた米国の研究者からメールが届いた。「Congratulation!」。競争を戦ったライバルからの祝福メールだった。
寒川所長は14年に、グレリンの発見で日本人で初めて米科学誌が選ぶ注目科学者の第1位に選ばれた。2位にはゲノム研究者と宇宙科学の世界的な研究者が並んでいた。「当時の科学誌には、1位はあまり知らない科学者だと書かれてあった」と苦笑する。
グレリンの応用範囲は幅広い。衰弱状態の患者の心機能回復や食欲増進などのほか、急性心筋梗塞(こうそく)の患者の死亡率を下げたり、糖尿病に効くことも分かってきた。現在、有効な治療薬のない拒食症の治療薬としても臨床段階にあり、体内にあるホルモンなので、副作用も少ないという。
一昨年、所長に就任してからは研究に割ける時間が少なくなったが、「既に競争渦にあるような物質は遅かれ早かれ発見される。それなら私は、誰も研究対象にしないものを選びたい」。
寒川所長が所長室に掲げている格言がある。30年前、大学院生時代に偶然松山で買った古本の見返しに書かれていたキュリー夫人の言葉だ。
「実験室に於ける偉大なる科学者の生活というものは、多くの人の想像している様な、なまやさしい牧歌的なものではありません。それは物に対する、周囲に対する、特に自己に対する執拗(しつよう)な闘争であります」
■グレリンとは何か? - 京都大学医学部附属病院「グレリン創薬プロジェクト部門」
寒川賢治(かんがわ・けんじ)氏
昭和23年8月、徳島県生まれ。
愛媛大文理学部(現理学部)で有機化学を専攻。
51年、大阪大学大学院理学研究科博士課程を修了し、理学博士に。専門は生化学。
平成2年、宮崎医科大助教授
平成5年、国立循環器病センター研究所生化学部長
平成13年から5年間、京大病院探索医療センターで「グレリン創薬プロジェクト」のリーダーを務めた。
14年、「世界で最も注目された研究者ランキング」で日本人初の1位に選ばれたほか、18年には国際肥満学会で基礎部門最高賞のヴェルトハイマー賞を受賞。ほかに岡本国際賞、武田医学賞、上原賞、日本学士院賞など。