90年代に「伝説のライダー」と呼ばれた男がこの世を去った。乗りなれたはずのバイクで交通事故で亡くなった。もう一人の「伝説のレーサー」加藤大治郎が2003年4月20日この世を去ってから4年、またひとりのライダーが去っていった。
バイク人口が減る日本において、F1と同じく世界選手権のカテゴリで活躍するバイクライダーには、日本人が多く参戦していました。F1では苦戦する世界レベルの戦いの中でも、WGPクラスのバイクを駆る日本人は、多くの優勝そして優秀な成績を残していた。しかに世の中はバイクに注目する人が少なく、悲しい時代だったのかもしれない。
世界選手権GP500にはじめて参戦したのは、阿部が18歳の1994年、第10戦イギリスGPだった。ところがその予選で転倒し手首を骨折したため、決勝レースが走れないという意外な形での世界デビューとなる。 翌1995年にはGP500へフル参戦し、初の3位表彰台を獲得。さらに1996年には、第3戦日本GPで初優勝を飾り、世界のトップライダーの仲間入りを果たした。その後、1999年のリオGP、2000年の日本GPでの優勝を合わせこれまでに3回の優勝を成し遂げている。またランキングでも、常にトップ10入りを果し、まさに日本という枠を超え、世界のトップライダーとしてその名を轟かせた。 2005年から戦いの舞台をスーパーバイク世界選手権に移した阿部は、慣れない市販車ベースのマシンということで思うような結果が残せずランキングは13位。そして2年目の2006年も、ランキングは13位でシーズンを終えた。 2007年は心機一転、全日本選手権への参戦が決定。1994年から2006年まで世界を舞台に活躍してきた阿部が、1993年以来となる全日本の舞台に戻ってくる。チームはY'S GEAR Racing、マシンは2007年モデルの新型YZF-R1。世界で見せてくれたように、全日本でも熱いバトルを展開してくれるはず。ぜひその戦いに注目してほしい。
事故死ノリックにファンの悲しみ募る 2輪ロードレース世界選手権(WGP)で通算3勝を挙げたカリスマライダー、「ノリック」こと阿部典史(のりふみ)さん(享年32)が事故死した神奈川県川崎市の現場に8日、多くの献花が飾られた。強い雨の中、早朝からファンが詰めかけ、阿部さんが倒れていた路上が祭壇のようになった。阿部さんのホームページ(HP)掲示板には秒単位で「ありがとう」「忘れない」などの書き込みが殺到した。 大粒の雨が路上の花束をぬらした。花束が阿部さんが倒れていたことを示す白いチョークの上に次々に置かれた。傘をささずにうなだれた女性が「ノリックー!」と叫んで崩れ落ちた。その横で手を合わせた30代の男性は「7月の鈴鹿の8耐で元気な姿を見たばかり。何でだ!」と肩を震わせた。50人以上のファンが立ちつくしていた。 事故現場には生々しい跡があちこちに残っていた。7日午後6時20分ごろ、片側2車線の市道の走行車線を走っていたトラックが突然Uターン。そこに追い越し車線で500CCのスクーターで走っていた阿部さんが突っ込んだ。衝突を避けようとした阿部さんは大きく右側にハンドルを切り、スクーター左側面を擦るだけで切り抜けたが、トラック前部のバンパーに引っ掛かった。阿部さんは約20メートル、スクーターは約40メートル飛ばされた。 逆車線の歩道近くに倒れた阿部さんは、駆けつけた救急隊と警察官に名前を告げ「職業は?」と問われると「ライダーです」。世界的に有名なライダーと知らない救急隊員から「アマチュアですか?」と尋ねられ、「いや、プロライダーです」と答えて市内の病院に運ばれ、それが最後の言葉となった。 事故で折れたろっ骨が動脈を損傷したことで容体は急変。午後8時52分に帰らぬ人となった。乗っていたスクーターは9月に購入したばかり。公道ではバイクに乗らず、愛車のフェラーリしか使っていなかったが、この日は距離的に近い横浜市に所用があったため、手軽なスクーターを使ったようだ。 川崎署には事故現場の住所を尋ねる電話が多数寄せられた。「一般の人からこんなに問い合わせがくることはない」と同署では驚く。阿部さんのHPの掲示板には秒単位で「ありがとう」「早いよ」「あぁキツいなぁ」などとメッセージが書き込まれた。阿部さんは、同HPの9月6日のブログで、その2日前に練習走行中に事故死した沼田憲保さん(享年41)について「危険は未然に防ぐしかない。そのことを強く感じた」と書いていた。
ノリック通夜に2000人…戒名「正道院弐輪英雄典久大居士」 7日に川崎市内で交通事故死したレーシングライダー、阿部典史さん(享年32歳)の通夜が12日、東京・青山葬儀所で行われ、約2000人が参列した。 祭壇の棺(ひつぎ)には、2000年日本GPに勝った時のレーシングスーツがかけられていた。「引退間際のオレが(代われるものなら)代わってあげたい」と13日の葬儀・告別式で弔辞を読むライダーの伊藤真一(40)は沈痛な表情。元GPライダーの原田哲也(37)は「天国で大ちゃん(03年4月、レース中に事故死した故・加藤大治郎さん)と一緒に走ってほしい」と冥福(めいふく)を祈った。鈴木亜久里・スーパーアグリF1代表、大関・千代大海、V6の長野博らも姿を見せた。 戒名は「正道院弐輪英雄典久大居士(しょうどういんにりんえいゆうのりっくだいこじ)。来世でも、“ノリック”の愛称のまま走り続ける。
戒名は「正道院弐輪英雄典久大居士(しょうどういんにりんえいゆうのりっくだいこじ)。来世でも、“ノリック”の愛称のまま走り続ける。
ノリックに別れのエンジン音、3000人号泣 7日に交通事故で急逝した、オートバイレーサーの阿部典史さん(享年32歳)の告別式が13日、青山葬儀所(東京都港区)で開かれた。親しみやすいキャラクターから「ノリック」の愛称で親しまれ、ファンや関係者3200人が最後の別れに訪れた。出棺時には、ゼッケン「81」を付けた愛用のマシン「YZF−R1」(ヤマハ)を関係者らが始動、エンジン音が2度、3度と会場を包むと、ファンは泣き崩れ「ノリック、ありがとう!」と叫びながら故人を見送っていた。 93年に初参戦した「全日本ロードレース選手権」(500ccクラス)で史上最年少(18歳)で王者に輝いた。94年にワイルドカードを受け挑戦した、二輪世界最高峰の「ロードレース世界選手権」(500ccクラス/現在のモトGP)の「日本グランプリ(GP)」では、強豪ミック・ドゥーハン選手(オーストラリア)、ケビン・シュワンツ選手(アメリカ)らとトップ争いを繰り広げ、世界の注目を集めた。96年の「日本GP」で初優勝。99年の「リオGP」、00年の「日本GP」と通算3勝を挙げている。 世界最高峰クラスで5度の王者経験を持つ、バレンティーノ・ロッシ選手(28)は弔電で、94年の「日本GP」でのドゥーハン選手らとの死闘を見て、阿部さんのファンになったといい「若い頃、あなたのポスターを部屋に張っていました。01年のへレス(スペインGP)では、一緒に表彰台に登りましたね。同じレースで戦えた事を誇りに思います。典史は僕の心の中でずっと生き続けます」と早すぎる死を悼んだ。 ヤマハ発動機本社コミュニケーションプラザ(静岡県磐田市)では献花台を設置しており、20日・21日に鈴鹿サーキットで開かれる「全日本ロードレース 第7戦」のヤマハファンブースには献花台が設置される。 阿部典史公式サイト http://www.norickabe.com/
“ノリック”阿部典史の死 阿部典史選手が不慮の交通事故で逝去してから、1カ月が経とうとしている。 スターティンググリッドの順位が低くても、あっという間にトップグループにつけてしまうロケットスタートや、背筋を立てた独特のライディングスタイルなどの「理屈を超えた走り」で、多くの人を魅了した。2004年まで2輪ロードレースの最高峰MotoGPを戦い、表彰台獲得は3度の優勝を含む17回。全日本選手権に戦場を移した今季、レース環境の向上にも率先して取り組み続けていたなか、10月7日の夕刻、一般道を大型スクーターで走行中に、転回禁止の場所で突然Uターンしてきた車両と衝突、32歳の生涯を閉じた。 事故の1週間後、オーストラリア・フリップアイランドではMotoGP第16戦が開催されている。いまだに熱狂的なファンを持つスター選手の突然の訃報に、多くの関係者が様々な形で弔意を表した。 たとえば、イタリアが誇るスーパースター、バレンティーノ・ロッシが自らを「ろっしふみ」と名乗るほど阿部氏の大ファンだったことは有名だが、その死を悼み同国の新聞一面で追悼文を発表している。決勝日には125cc、250cc、MotoGPの3クラス全選手やチーム関係者全員がスタートラインに集合して1分間の黙祷が捧げられた。同日の午後に行われた決勝レースでも、全クラスの日本人選手やロッシ、ヤマハのチームスタッフなど、親交のあった全員が腕に喪章を巻いてレースに臨んだ。 また、このレースを報じるスペインの雑誌では、決勝前日に日本で行われた阿部氏の葬儀の模様も併せて伝えられた。その翌週に行われた第17戦マレーシアGPでは、250ccクラスで青山博一が優勝を飾り、「ノリックさんが力になってくれました」と、腕に巻いた喪章にそっと手を触れた。 享年33。今後の日本ロードレース界へ果たしたであろう貢献や、世界と日本をつなぐ架け橋としての役割を考えると、我々が喪ったものはあまりにも大きい。
スターティンググリッドの順位が低くても、あっという間にトップグループにつけてしまうロケットスタートや、背筋を立てた独特のライディングスタイルなどの「理屈を超えた走り」で、多くの人を魅了した。2004年まで2輪ロードレースの最高峰MotoGPを戦い、表彰台獲得は3度の優勝を含む17回。全日本選手権に戦場を移した今季、レース環境の向上にも率先して取り組み続けていたなか、10月7日の夕刻、一般道を大型スクーターで走行中に、転回禁止の場所で突然Uターンしてきた車両と衝突、32歳の生涯を閉じた。
事故の1週間後、オーストラリア・フリップアイランドではMotoGP第16戦が開催されている。いまだに熱狂的なファンを持つスター選手の突然の訃報に、多くの関係者が様々な形で弔意を表した。
たとえば、イタリアが誇るスーパースター、バレンティーノ・ロッシが自らを「ろっしふみ」と名乗るほど阿部氏の大ファンだったことは有名だが、その死を悼み同国の新聞一面で追悼文を発表している。決勝日には125cc、250cc、MotoGPの3クラス全選手やチーム関係者全員がスタートラインに集合して1分間の黙祷が捧げられた。同日の午後に行われた決勝レースでも、全クラスの日本人選手やロッシ、ヤマハのチームスタッフなど、親交のあった全員が腕に喪章を巻いてレースに臨んだ。
また、このレースを報じるスペインの雑誌では、決勝前日に日本で行われた阿部氏の葬儀の模様も併せて伝えられた。その翌週に行われた第17戦マレーシアGPでは、250ccクラスで青山博一が優勝を飾り、「ノリックさんが力になってくれました」と、腕に巻いた喪章にそっと手を触れた。
享年33。今後の日本ロードレース界へ果たしたであろう貢献や、世界と日本をつなぐ架け橋としての役割を考えると、我々が喪ったものはあまりにも大きい。