英紙ガーディアンによると、英情報当局者は、リトビネンコ氏が所属していたロシア連邦保安局(FSB)の現職職員か退職者が関与した可能性が高まっていると指摘した。FSBの組織的関与は考えにくいとしているものの、同氏から検出された放射性物質「ポロニウム210」は致死量の100倍以上で、入手には2000万ポンド(約46億円)かかる計算だという。警備が厳しい核関連施設から持ち出された可能性が高いとの見方が強い。
リトビネンコ氏はFSBの対チェチェン工作などを告発した。プーチン政権と敵対し、ロンドンに亡命した政商ベレゾフスキー氏が後ろ盾とされ、FSB関係者の恨みをかっていたとされる。
11月30日、リード英内相は議会で捜査の進行状況について報告し、10月下旬から11月初めにかけてモスクワとロンドンを行き来した英航空大手ブリティッシュ・エアウェイズ(BA)の旅客機2機から放射性物質の痕跡を示す反応があったと確認した。ポロニウム210との見方が有力だ。
ガーディアン紙によると、英情報当局は、放射線の反応が見られた10月25日のモスクワ発ロンドン行きの便に乗っていた人物に注目。3日後に同じ機体でモスクワに戻ったとみられ、放射性物質をロンドンに持ち込んだ疑いが浮上している。
また、11月1日夜のサッカー欧州チャンピオンズリーグのアーセナル対CSKAモスクワの試合を観戦するためにロンドン入りしたというロシア人の集団にも注目。FSB要人警護局の元幹部ルゴボイ氏、同氏と旧知のコフトゥン氏、ソコレンコ氏の3人は、リトビネンコ氏と試合の前にロンドンのホテルのバーで会っていた。
一方、英健康保護局はリトビネンコ氏にロンドンのすしバーで、同氏を含む暗殺情報を渡したイタリア人学者スカラメッラ氏の体内から「ポロニウム210」の顕著な反応があったことを明らかにした。
リトビネンコ氏の友人で、ベレゾフスキー氏の関連財団を率いるゴールドファーブ氏は1日、ロシアの刑務所に収監されているとされるFSB元職員の手紙を公開。元職員はリトビネンコ氏に4年前、FSBが同氏らを暗殺するための特別チームを設置したと警告していたとの内容だった。
リトビネンコ氏の事件と10月のポリトコフスカヤ記者の殺害、さらに11月24日、改革派の重鎮で首相代行時代にルゴボイ氏が警備責任者でもあったガイダル氏が原因不明の重体となった事態について、ロシアでは08年に任期が切れるプーチン大統領の後継問題との関連を指摘する見方が強まっている。
クレムリン内の強硬派については、96年の大統領選挙時にも同様の状況があったと指摘されている。当時のエリツィン大統領の側近のうち、FSB長官ら治安閣僚は、共産党候補に大差をつけられていることを理由に選挙の延期や議会の解散を主張。さらに国内に非常事態を導入するための挑発も行った。
現在のクレムリン内にも、堅固な支配体制の維持を目指す強硬派が、憲法上禁止されたプーチン氏の3選実現に動いているとされる。一方、ベレゾフスキー氏は先に「力による権力奪取に踏み出す」と発言したため、違法な権力奪取を企てた容疑でロシア当局が国際手配中だ。同氏、あるいは強硬派がテロなどを挑発している可能性は十分ありえる、と同紙などは指摘している。
暗殺には1億ドル(118億)のコストか?
ロシア連邦保安局(FSB)の元幹部アレクサンドル・リトビネンコ氏が放射性物質ポロニウム210によって殺害された事件は、氏の死亡から23日で1カ月。特殊物資の使用が犯人に結び付く有力な手がかりになるとみられたものの、捜査は英国からロシア、ドイツへと国際的広がりをみせつつ難航している。
ポロニウム210の痕跡が見つかった場所はこれまでのところ、英国内だけでも10カ所に上る。
このうち注目されているのが、リトビネンコ氏が体調を崩した11月1日に旧知のロシア人実業家らと会っていたロンドン中心街西部のミレニアム・ホテルだ。ホテルのバーの従業員らからも放射性物質が検出され、同氏はバーの飲料に混入されたポロニウム210を摂取したとの見方が強い。
ただ、英紙タイムズによると、遺体の司法解剖で致死量の10倍以上のポロニウム210を盛られていたことが判明した。米研究機関から合法的に購入しても致死量分で1000万ドルはするから、殺害には1億ドルのコストがかかったことになる。
このため、英当局者は同紙に、「購入したり盗み出したりするのは現実的ではなく、核関連施設から持ち出すか闇市場から入手するしかない」との見解を示している。
ホテルでの会合には、リトビネンコ氏とFSBの前身、ソ連国家保安委員会(KGB)時代からの知人、アンドレイ・ルゴボイ氏とその友人のドミトリ・コフツン氏も同席、2人とも放射性物質に汚染され、モスクワで隔離されているとされる。
コフツン氏は事件前にドイツを訪れ、立ち寄り先や接触相手からも放射性物質が検出された。しかし、同氏自身が放射性物質を所持していたものか、氏を犯人に仕立てる罠(わな)にはまったものか、リトビネンコ氏と同様にこの物質を盛られたものかはっきりしないままだ。
露保安局元幹部毒殺から1カ月 ポロニウム痕跡続々 捜査も欧州に広がり
ロンドン警視庁が捜査官9人を2週間にわたりモスクワに派遣した「事情聴取」は終わった。だが、同紙によると、ロシアの捜査員がルゴボイ氏とコフツン氏、やはり同ホテルでの会合に居合わせたロシア人実業家、ビャチェスラフ・ソコレンコ氏の3人を聴取した調書を手渡されて持ち帰ったというのが実体だった。
3人とも参考人としての聴取に応じ、事件とのかかわりを否定したと伝えられる。ルゴボイ、コフツンの両氏は、自分たちを犯人に見せかけるために真犯人が立ち寄り先に放射性物質をばらまいた、と反論してきた。ソコレンコ氏も、BBCテレビによれば、サッカー観戦で英国入りしただけだと話しているという。
会合と同じ日、ロンドンのすしバーでリトビネンコ氏と会い、後に放射性物質が検出されたイタリア人研究者マリオ・スカラメラ氏も事件との関係を否定、自らも狙われていたと主張する。ポロニウムが結ぶ「点と線」はなお見えてこない。
殺害手段ではなく殺害動機
ロシア人元スパイが12月16日、BBC放送で、英企業とロシア企業の契約を妨害する文書が存在し、リトビネンコ氏が昨年、英危機管理会社から10万ドルでロシア人実業家5人の調査を依頼されていた、と爆弾証言した。
リトビネンコ氏が9月後半か10月前半に、まだFSBとは切れていないルゴボイ氏にこの文書を見せたため、妨害工作がロシア側に漏れ、事件につながったというのだ。同警視庁も文書の抜粋を入手して、事件との関連を調べているという。
ロシアの治安専門家は英紙デーリー・テレグラフに、「プーチン大統領は殺害を知っていたとしてもそれに関与することはない。ロシアでは元KGB要員らが徒党を組んだ犯罪組織がはびこり、犯罪の手口も巧妙化している」と指摘している。事件の背後に、犯罪組織や核の闇市場といったソ連崩壊後のロシアの暗部がちらつき始めている。
■犯行、11月以前の可能性も
リトビネンコ氏殺害事件に使われたとされる放射性物質、ポロニウム210は、100万分の1グラムが致死量とされる。主に放射されるアルファ線は紙一枚で遮断できるが、飲み込んだり、吸い込むなどして体内に入ると内臓などの細胞が破壊され、やがて死に至る。ポロニウムが検出されるまで時間がかかったのは、ポロニウムが他の放射性物質が出すガンマ線をほとんど出さないためだったとされる。
東京工大原子炉工学研究所の澤田哲生助手は、「(ポロニウム210は)粉末にすれば持ち運びが簡単でフィルムケースに収めても運べる。ただ煙のように拡散するため、完全密閉しなければならない。飛行機などで痕跡が見つかったのは、運ぶときに漏れたためではないか。犯人は取り扱いに熟知していなかった可能性もある」と語る。
安斎育郎・立命館大教授(放射線防護学)は「ポロニウムが体内に入って、細胞が破壊されるには時間がかかる。リトビネンコ氏が体調の不調を訴えた11月1日より前に盛られたのではないか」と指摘する。
ポロニウムは旧ソ連の宇宙船のエネルギー源(原子力電池)として使用された。ただし、致死量を確保するには数億円かかるとされる。このため、ポロニウムをあえて使ったのには、他の理由があるのではないかとの見方もある。