「星の王子さま」で知られるサン・テグジュペリ原作の原題は「小さい王子」なんだそうです。日本では「星の王子さま」として有名になってしまったのですが、この日本での著作権が2005年1月で切れて、岩波書店が持っていた独占的な翻訳出版権も消滅したため、新たに10種類近く「星の王子さま」が出版されるのではないかとされています。
多くの人に読み継がれてきたサン・テグジュペリの「星の王子さま」が、来月から様々な出版社から新訳で続々と出版される。日本での著作権が今年1月で切れ、これに伴い岩波書店が持っていた独占的な翻訳出版権も消滅したためだ。倉橋由美子さんや池澤夏樹さんら著名作家による新訳もあり、新しい「王子さま」が登場する可能性もある。 「星の王子さま」は、フランス人作家のサン・テグジュペリが飛行機で飛び立ったまま行方不明になる前年の43年に英語版とフランス語版が出版された。日本では53年に岩波少年文庫として出た。日本での著作権保護期間は原則として著作者の死後50年まで。だが、この作品の日本での著作権を管理している会社によると、第2次世界大戦中に著作権が機能しなかった期間が「戦時加算」として加わるなどして10年以上延びたという。 王子の純粋な心が読者の胸を打って日本だけで約600万部に達し、今なお売れ続けている大ロングセラー。出版社が次々に名乗りを上げている。6月には論創社、宝島社、中央公論新社が刊行。また、8月には集英社が池澤夏樹さんの訳で出す予定だ。ほかにも準備中の出版社があり、10種類近く出るのではないかと見られている。 岩波版はフランス文学者の故内藤濯(あろう)さんの訳。新訳本は新味を出すのに懸命だ。宝島社版の訳を担当した倉橋由美子さんは「内藤さんの訳はすばらしい。ただ、子どもの読者を意識して訳しておられるので、私は大人のために訳した。だから、これまでのイメージを裏切ってしまうかもしれません」と話す。 出版を決めた4社の本はいずれも題名に「星の王子さま」を使う予定だ。岩波書店と内藤さんの翻訳の著作権の継承者である長男で作家の初穂さん(84)はこれに反発している。原題を直訳すると「小さい王子」。「星の王子さま」は、濯さんのアイデアだからだ。 初穂さんは「新訳ならば、それにふさわしい題名をつくるべきだ」と話す。「『星の王子さま』の名前で出版するなら、法律などに詳しい人に相談して何らかの手を打ちたい」。ただ、著作権の専門家は、一般的に本の題名には著作権は及ばず、法的に争うことは難しいとみている。 星の王子さまの原画、山梨県で発見 世界で6点目 世界的なベストセラー、サンテグジュペリの「星の王子さま」の挿絵の原画が山梨県内の美術館所蔵品から見つかった。サンテグジュペリの自筆で、47点あるとされる原画はほとんど行方が分からなくなり、発見された原画は今回を含め世界で6点だけ。日本では初めてだ。
所蔵していたのは、世界の絵本作家の作品を紹介する美術館「えほんミュージアム清里」(山梨県北杜市)を主宰する渋谷稔さん(60)。94年、東京で開かれた古書市で見つけ、20年近くサンテグジュペリを研究してきた中村祐之さん(55)が調べた。
その結果、(1)裏面に初版本に掲載する範囲が鉛筆で指定されている(2)初版本と同じページ数が記載されている(3)サンテグジュペリが愛用した薄い「オニオンスキン紙」が使われている、などの特徴があった。
A4判ほどの大きさの紙に描かれていたのは、王子さまが巡る「四ばんめの星」の「実業屋」。書類に目を通すのに忙しく、王子さまが来ても頭を上げようとはしない。
フランスから来日したサンテグジュペリのおい、フランソワ・ダゲーさん(81)も保存状態がいい原画の発見に満足そうだ。
「星の王子さま」は第2次大戦中の43年、米国で出版され、日本では53年、仏文学者の故内藤濯(あろう)氏の訳で岩波書店から刊行された。販売部数は世界で8千万部を超えたと言われ、著作権が切れた05年以降、日本では新訳の出版が相次いでいる。
原画は、今月25日から東京・銀座の松屋で開かれる「サン・テグジュペリの星の王子さま展」で公開される。
星の王子さま著者「サンテクジュペリ搭乗した戦闘機を撃墜」元独軍パイロットが証言 仏誌フィガロ(週刊)などは15日、第2次大戦中、連合軍の偵察任務でP38戦闘機を操縦中に消息を絶った童話「星の王子さま」の著者アントワーヌ・ド・サンテグジュペリ(1900年〜44年)について、同機を「撃墜した」とする元ドイツ軍戦闘機パイロットの証言を伝えた。 元パイロットは、ホルスト・リッペルトさん(88)。44年7月31日、メッサーシュミット機で南仏ミルを飛び立ち、トゥーロン上空でマルセイユ方向へ向かって飛んでいる敵軍機を約3キロ下方に発見。「敵機が立ち去らないなら撃つしかない」と攻撃を決意。「弾は命中し、傷ついた敵機は海へ真っ逆さまに落ちていった。操縦士は見えなかった」と回想している。 敵機の操縦士がサンテグジュペリだったとはその時はわからず、数日後に知った。リッペルトさんは、「あの操縦士が彼でなかったらとずっと願い続けてきた。彼の作品は小さいころ誰もが読んで、みんな大好きだった」と語っている。 サンテグジュペリの操縦機は2000年に残骸がマルセイユ沖で見つかったが、消息を絶ったときの状況は不明だった。仏紙プロバンスによると、その後テレビのジャーナリストとして活動したリッペルトさんは友人に、「もう彼のことは探さなくてもいい。撃ったのは私だ」と告白したという。
元パイロットは、ホルスト・リッペルトさん(88)。44年7月31日、メッサーシュミット機で南仏ミルを飛び立ち、トゥーロン上空でマルセイユ方向へ向かって飛んでいる敵軍機を約3キロ下方に発見。「敵機が立ち去らないなら撃つしかない」と攻撃を決意。「弾は命中し、傷ついた敵機は海へ真っ逆さまに落ちていった。操縦士は見えなかった」と回想している。
敵機の操縦士がサンテグジュペリだったとはその時はわからず、数日後に知った。リッペルトさんは、「あの操縦士が彼でなかったらとずっと願い続けてきた。彼の作品は小さいころ誰もが読んで、みんな大好きだった」と語っている。
サンテグジュペリの操縦機は2000年に残骸がマルセイユ沖で見つかったが、消息を絶ったときの状況は不明だった。仏紙プロバンスによると、その後テレビのジャーナリストとして活動したリッペルトさんは友人に、「もう彼のことは探さなくてもいい。撃ったのは私だ」と告白したという。