話題のナレッジベース | Knowledge Base Weblogs space
HOMEBlogs index F1/90'sYouTube >> space
space space
space
space
space
space
May 5, 2004 space
   space
space

アイルトン・セナ Ayrton Senna/A Tribute to the Legend

space

アイルトン・セナ追悼。グランプリ史の中で最も悲しい出来事となった1994年5月1日のアイルトン・セナの死。世界中が涙したあの日から幾度もの月日が経った。
 

73164.jpg

 

space

 
 大幅なレギュレーション変更を受け迎えた1994年シーズンは、シーズン・オフのJ.J.レート、開幕戦後のジャン・アレジ、グランプリ初日公式予選のルーベンス・バリチェッロと大クラッシュが続いたが、幸運が続いたのはここまでだった。
 
2日目公式予選の高速ビルヌーブコーナーでのクラッシュは、僅かF1参戦2戦目のローランド・ラッツェンバーガーの夢を奪うこととなり、F1では1986年のポール・リカールでテスト中のエリオ・デ・アンジェリス、グランプリでは1982年のカナダGPでリカルド・パレッティ以来となる死亡事故となった。そして決勝ではA.セナまでも……。
 
 ”レースの血が流れている”と語り、常に最速を追い求めたA.セナ。ホンダの第2期F1活動休止の2年後、念願のチャンピオンマシン『ウィリアムズ・ルノー』を手に入れたA.セナのトップ走行中の悲しいアクシデントだった。
 
 Hondaエンジンと共に獲得した3度のドライバーズ・タイトル
 
 83年にイギリスF3を圧倒的な強さで制し、84年にトールマンからF1にデビューしたセナは、第6戦モナコでニキ・ラウダら強豪を抑え2位表彰台を獲得。デビューイヤーからその高いパフォーマンスを披露していた。
  
 そして翌85年には古豪ロータスに移籍。
 
 2戦目のポルトガルでポール・トゥ・フィニッシュを飾り、その才能を開花させた。86年、完全にチームのエースとなったセナは、プロスト、マンセル、ピケとともに「四天王」と呼ばれるまでの存在になっていた。しかしこの年のロータスは、マクラーレンやウイリアムズに到底かなう代物ではなかった。そんなセナがシーズン中に接触を図ったのが、当時ホンダを率いていた桜井淑敏監督だ。この年、第二期ホンダとして初めてコンストラクターズ・タイトルを獲得したエンジンを欲したセナ。その思いは通じ、ロータスは翌年ホンダ・エンジンを獲得する。それはホンダとセナの蜜月時代の始まりを意味するものであった。
 
念願のホンダ・エンジンを手に入れたセナだったが、シャシー性能がライバルに劣っていた。ロータスのアクティブサスペンションは重く、挙動の鈍いマシンだったのだ。セナの優勝はモナコとアメリカの2度にとどまる。
 
名門ロータスで3年を過ごしたセナは、翌88年にはホンダとともにマクラーレンへ移籍。すると、セナとチームメイトのプロスト、そしてホンダは全16戦中15勝という圧倒的な強さでシーズンを制する。そしてセナは8度の優勝(シーズン最多勝記録)、3度の2位という成績で、念願のワールドチャンピオンに輝いたのだった。
 
89年もタイトル争いはセナとプロストの両雄によって展開された。そしてその戦いは両者の確執という形になって第15戦日本GPにもつれ込んでいく。
 
ポールポジションを獲得したのはセナ。しかしスタートに賭けていたプロストが早々にトップを奪う。そして47周目、セナがシケインでプロストのインに飛び込むと、両者は接触。プロストはすぐにマシンを降りたが、セナはマーシャルにマシンを押させ、シケインをショートカットしコースに復帰し、トップでチェッカーを受ける。ところが、表彰台にセナの姿はなかった。プロストとの接触後の行動に対し、失格という裁定が下されたのだ。この結果セナは、この年のタイトルを失うことになる。
 


 
90年、プロストはフェラーリに移籍したが、戦いの構図が両雄にあることに変わりなかった。エンジンパワーではマクラーレン・ホンダが勝ったが、マシン・バランスに優れるフェラーリのプロストがポイントを重ね、前年に続き鈴鹿で雌雄を決することになる。そして、その戦いはスタート後、わずか数秒で決することになってしまうのだ。アウト側から1コーナーに飛び込もうとするプロストと、そのインを突いたセナが接触。2台はあっけなく戦列から離れた。そしてこの瞬間、セナの2度目のタイトル獲得が決する。
 
91年、王者セナとマクラーレン・ホンダに牙を向いたのは、マンセルとウイリアムズ・ルノーだった。シーズン序盤こそ、セナに分があった。フェニックス、ブラジル、サンマリノ、モナコと開幕4連勝。特にレース終盤、6速ギアにしか入らなくなりながら、左手でそれをホールド、懸命なドライブでチェッカーを受けた地元ブラジルでの初勝利は、感動的であった。ところがシーズン中盤になると、タイトル争いの流れはマンセルに移行していく。そしてまたも鈴鹿が決戦の舞台となるのだ。
 
鈴鹿での優勝にタイトル獲得を賭けたマンセルだったが予選は3番手。マクラーレンは2番手につけたセナがこれを抑え、ポールポジションのベルガーを逃がす作戦に出た。この戦略に見事にはまったマンセル。10周目の1コーナーで仕掛けるもコースアウト。セナ3度目のタイトル獲得が決まった。
 
そして92年、第二期ホンダ最後の年。タイトル争いの流れはウイリアムズとマンセルにあった。このシーズンのセナのハイライトといえば、そのマンセルとドッグファイトを演じたモナコをおいてほかにないだろう。
 
 ■セナの思い出/モナコGP
 
 開幕から5連勝と飛ばすマンセルは、第6戦モナコでもトップを快走していた。しかし終盤、予定外のピットストップを行ったことで、このシーズン初めてセナがラップリーダーに立つ。残り7周。見る見るうちにセナの背後に迫ったマンセルだったが、抜きどころのないモナコで、マイスターの称号を持つセナをかわすことはできず、F1史に残る名勝負は幕を閉じたのだった。
 
そしてホンダは、イタリアGPでF1活動の休止を正式に発表。セナとホンダの蜜月関係は、この年をもって終わりを迎えるのであった。
 
セナとHondaが強い絆で結ばれていたことを証明するレースとなったのが1991年のハンガリーGP。
 
ホンダの創始者、本田宗一郎氏の追悼レースとなったこのレースに喪章をつけて挑んだセナは、3連勝中のマンセルを抑え切り6戦振りとなる勝利を飾っている。
 
 
 好敵手との戦い、世代交代の中で迎えた最後のシーズン
 
 92年イタリアGP。このシーズン開幕当初からささやかれていたウワサが現実のものとなる。川本信彦ホンダ社長(当時)が、同シーズンをもってF1での活動を休止することを発表したのだ。それを聞いたセナの落胆振りは、激しかった。セナとホンダの関係の深さは、両者が築き上げた記録をみれば明らかだ。優勝32回、タイトル3回。セナのキャリアはホンダとともにあったといっても過言ではない。ホンダ撤退についてのコメントを求められたセナが思わず涙する場面もあった。
 
ホンダを失ったセナは、翌93年シーズン、マクラーレンに留まるかどうかの結論を出すことを先延ばしにした。そしてシーズン開幕直前に出した結論は、一戦ごとに契約すること。しかしエンジンはフォードのカスタマー仕様。一年の休養の後にウイリアムズから復活したアラン・プロスト、そして台頭著しいミハエル・シューマッハを相手にするには、苦しい戦力だ。しかしシーズン序盤、セナは天候を味方にし、また卓越したドライビング・テクニックを駆使し、第2戦ブラジル、そして第3戦ヨーロッパを連勝で飾る。特に雨の降るスリッピーな路面をものともせず、オープニングラップで4台をごぼう抜きにしたヨーロッパGPは、セナのベストレースの一つであり、F1史に残る偉大な瞬間であった。
 
モナコで5年連続、自身6度目の勝利を飾るが、その後はやはり戦闘力に勝るウイリアムズの後塵を拝することが増えていった。それでもプロストのタイトルが決まった後の鈴鹿、そして最終戦アデレードで優勝を飾ると、数々の記録をともに打ち立てたマクラーレンを離れ、タイトル奪還のため、ウイリアムズへと移籍していく。このとき、アデレードでの勝利が、セナの生涯で最後の優勝となるとは、誰も思いもしなかったはずだ…。
 
 
 94年シーズン開幕戦ブラジル。故国のレースでセナは最強マシンを駆り、ポールポジションに愛機を並べる。過去2年のウイリアムズの強さを考えれば、この年はセナの圧勝に終わると誰もが予想していた。しかし、94年からハイテク機器に規制がかけられ、エアロダイナミクスを重視したウイリアムズFW16は、非常にセンシティブなマシンとなっていたことが、唯一気がかりな点ではあった。開幕戦ブラジル、そして第2戦パシフィックで続けてスピンを喫したセナも「よく理解できない。あんなトラブルが起きるはずないのに」と語っていた。
 
 そして運命のサン・マリノGPがやってくる。
 
sena04050501.jpg 予選2日目にラッツェンバーガー(シムテック)が時速290km/hでウォールに激突し死亡したことに大きな衝撃を受けたセナだったが、このレースでもポールポジションを獲得する。
 
しかし、そのスタートでまたもアクシデントが発生。3列目スタートのレート(ベネトン)がエンジンをストールさせると、そこへラミー(ロータス)が激突。飛散したパーツなどが観客席に飛び込み、重軽傷者が出る事態となった。
 
通常なら赤旗だが、この年から導入されたセーフティカーが登場、レースは6周目に再スタートとなる。

そして7周目の高速左コーナー、タンブレロでそれは起こった。そこでセナのマシンはターンインせず、まっすぐアウト側に向け直進。そのままウォールに激しく衝突すると、マシンは舞い上がる埃とともにコースサイドに止まった。
 
駆け寄るマーシャルに医師団。緊急措置のあとヘリコプターで病院に搬送されたセナだったが、その夕刻、帰らぬ人となったことが発表されたのだ。


  
 94年サンマリノGPで相次いで起こった死亡事故は、F1の安全性基準を向上させる、大きなきっかけとなった。あれから10年。あの日、セナの背後を走っていたミハエル・シューマッハは、こう述懐する。
 
 「いまでも彼の後ろを走っていたときの光景が目に浮かぶ。あの週末は僕にとっても、ほかのみんなにとっても、ショックな出来事が続いた週末だった。僕も言葉を失ってしまったよ。
 
 自分が参加しているスポーツで、人の死に直面したのは初めてだったからね。セナは多くのことをF1に残してくれた。その一つが安全性だ。
 
 マックス・モズレー(FIA会長)が2人のおかげでF1の安全性は格段に向上した、と言っているけど、その通りだ。あの悲劇的な出来事が残した唯一ポジティブなことが、それだよ」

 
 1994年シーズンのセナは念願のチャンピオンマシン『ウィリアムズ・ルノー』を手に入れたが、大幅なレギュレーション変更に合わせ作られた『FW16』はセナの望むようなハンドリングを持つマシンではなかった。
 
 
 10年後のレクイエム:セナはロータスで王座に着くべきだった
 
 その当時、私はセナというF1ドライバーが好きではなかった。マクラーレン・ホンダという最強マシンを駆り、すでに3度のチャンピオンを獲得。94年も当時のベスト・パッケージだったウイリアムズに移籍し、チャンピオン候補の最右翼に挙げられていた。当たり前のようにPPを押さえ、速いマシンをことさら早く走らせ、勝利をさらっていく。セナが走ると、レースの面白みに欠けた。ちょうどここ数年のシューマッハーのようだった。そうして、セナがすっかり嫌いになっていた。
 
その年5月1日の深夜もTVを横目で見ながら原稿を書いていた。開幕からシューマッハーが2連勝。「新星」シューマッハーの台頭で今シーズンはなかなか面白い出だしになったなと思っていた。それでもセナは、予選でのローランド・ラッツェンバーガーの事故死を乗り越え、開幕から3戦連続のポールポジションを獲得していた。
 
イモラでのレースはほんの序の口だった。波乱はあったものの、まだ各マシンは団子状態に等しかった。そうして誰も予期せぬまま、衝撃の瞬間が訪れた。その瞬間を古いF1ファン(と言ってもたかだか10年前の出来事だが)は、片ときも忘れたことはないだろう。タンブレロ・コーナーをトップで回ってきたセナのウイリアムズはまるで見えない力にひっぱられるかのように外側のコンクリートウォールに吸い寄せられ激突した。私はその瞬間、立ち上がって叫んだ「セナが死んだ」と。その当時の同居人は「嘘だ、嘘だ」と隣の部屋から飛び出してきた。同居人は「まだ判らないよ。単なる事故じゃない」と口にした。
 
だが、私は直感的に自分の叫んだことが間違っていないと知っていた。レースに参加したことがある者にとって、ほぼ全開状態のマシンがノーブレーキに近い形でコンクリートに激突したらどんな衝撃が人間を襲うか、簡単に想像できるはずだ。それはF1のように優れたマシンであろうとなかろうと大きな変わりはない。マシンは持ちこたえられたとしても、乗っているのは生身の人間にすぎない。その事故は、ダミー人形を使ったクラッシュテストのようにさえ見えた。
 
そのレースが終わる頃には、私の予感は現実のものとなった。わりとメジャーなクルマ雑誌にも原稿を書いていた私は、鳴り出した原稿依頼の電話の応対などに追われるようになり、残りのシーンで記憶しているのは涙を浮かべている今宮氏と川井氏の表情くらいだ。
 
 
 アンチ「セナに会いたい症候群」
 
 何よりも私がセナ嫌いになった大きな理由のひとつは、「セナに会いたい」症候群のせいだったと思う。それまで、F1にタイヤがいくつついているか知っていたのか怪しいようなファンが闊歩し始め、セナに会ったことがあるかのように、セナがどんな人物か語り始める輩までいた。
 
だが、日本のごく一般的なファンにとって、セナを応援するのはごく自然の流れだったのだろう。無理もない。ホンダとセナのキャリアは相似形とも言える上昇曲線を描き、80年代後半から90年はじめのF1界を席捲したのだから。
 
ホンダが二回目のF1に挑んだのは1983年、スピリットにエンジンを供給する形で復活した。この年の戦績は散々だったが、最終戦からウイリアムズ・ホンダのパッケージへと移行し、第二期黄金期へとホンダが走り出す。ケケ・ロズベルグがホンダに初のポイントをもたらした。
 
ブラジルの若武者がトールマンからF1デビューを果たしたのは翌84年の初戦だった。そのレースではロズベルグが2位を獲得、ホンダに初の表彰台をプレゼントしている。ホンダの復活が少し「上向きな」ニュースとして日本国内に伝わってきたころ、やたらぶかっこうなマシンを駆るセナは注目を集め始め、モナコでは一気にニューホープとしてその名をあげる。第6戦の決勝は大雨、予選13位スタートの新人ドライバーは、そのレースで、F1キャリア初の首位走行を実現したナイジェル・マンセルのクラッシュを尻目に快走。1周目で9位にあがり、10週目までに6位、19周目にラウダを抜いて2位に。あまりの雨の激しさにレースは赤旗終了となり、トップだったプロストは命拾いの優勝を果たす。このレースは、セナの後のキャリアを決定づけた。トールマンとは3年契約だったにもかかわらず、翌年から名門ロータスを駆ることになる。
 
ロータスをステップに、セナは88年、マクラーレンに移籍。その後の活躍は誰もが知るものとなる。ホンダの黄金期を支えたドライバーとして大きくクローズアップされるのだから、日本でセナのファン以外を見つけるほうが難しいくらいだった。
 
だが、この流れの中で私は一気にセナ・ファンとしての熱が冷めてしまった。多くのファンに好かれる才能あるドライバーが速いマシンに乗り、勝ち続ける…オールドファンとしては至極面白みに欠けた。そんなグランプリの元凶は、セナというドライバーのせいだとさえ思えたほどだ。
 
 
 ロータスのセナ
 
 セナというドライバーを思い出すとき、つねにJPSカラーのロータスを思い出す。セナはロータスで3シーズンを過ごしたに過ぎない。しかし、この時代のセナはまさに期待の新星だった。トールマン・ハートからロータス・ルノーにマシンを変え、2戦目にはポールトゥウインで初優勝を果たす。センセーショナルだった。
 
ロータス・ルノーは後のマクラーレン・ホンダのようにピカイチのパッケージではなかった。それでも、85年、86年の2年間で15回のPPを獲得。ルノーターボは決勝でよく壊れ、ガス欠で止まった。なかなか勝利に結びつかなかった。ドライバーはピカイチ、マシンはいまいち。だからこそセナは輝いてみえた。
 
87年、ロータスはホンダエンジンを手に入れ、セカンドドライバーに中嶋悟を迎えた。セナは4年目にしてチャンピオンを狙えるパッケージを手に入れた、と期待させられたものだ。だが、その年のロータスのシャーシは重く愚鈍だったと言われ、かつ革新的とされたアクティブサスペンションもよく壊れた。この年からフジテレビでの中継が始まったため、レースを記憶している人も多いだろう。
 
前年からグランプリを席捲し始めたホンダエンジンを持ってしても、前年まであれほど荒稼ぎしたPPはわずかに1度。優勝回数も前年、前々年の2回からまったくのびなかった。モナコとデトロイトというストリートコースでのみ優勝を挙げたのは、アクティブサスの優秀性ではなく、レースが荒れるほど真価を発揮するセナのドライビングテクの真骨頂だったはずだ。
 
第15戦、初めて鈴鹿で行われた日本GPでのセナの走りは、ベルガーの優勝という、チャンピオン争いと無関係のフェラーリの勝利の陰に隠れていた。だが、セナは「らしくない」堅実な走りで3位をキープ、そして最終ラップでマクラーレンのステファン・ヨハンソン(スピリット・ホンダのドライバーだったことを忘れてはならない)を一気に刺して2位を陥れた。周回を重ねるごとにマクラーレンを追い詰めるセナの走りは、ピットストップで順位が入れ替わる今のF1とは一線を画すものだった。私はデグナーカーブの入口のフェンスに張り付き、かじりついてセナの走りを見ていた。
 
グランプリから消えてしまったセナについて考えるとき、いつも同じことを考える。あのとき、ロータスがアクティブサスなどという実験的なシャーシを披露せず、軽いオーソドックスなロータス・ホンダのパッケージが仕上がっていたら?
 
セナはそのときのウイリアムズ・ホンダ以上に結果を見せたに違いない。そんな結果が出ていたなら、セナはロータスに留まっていただろうか。おそらくそうだろう。そして、もちろんロータス・ホンダでセナがチャンピオンになった可能性も十二分にあったはずだ。ロータスという名門も、セナという天才も、もっともっと寿命を延ばし、グランプリファンを魅了したのではなかろうか。
 
セナがマクラーレンへの移籍を発表したときに、私はセナに対する興味の大半を失った。多くのF1ファンにとって、セナはマクラーレン・ホンダのドライバーだろう。だが、私にとってセナはやはりロータスのドライバーだった。プロストは常にマクラーレンのドライバーであり、ピケはブラバムの、マンセルはウイリアムズの、シューマッハーはもちろんベネトンのドライバーである。
 
セナがマクラーレンに移り、4番バッターばかりをならべたどこかの野球チームのようなジョイントナンバー1などでいちチームがグランプリを寡占することもなく、オールドスタイルのドッグファイトが見られたらどなっていただろう。ロータスとマクラーレンが拮抗するようなレースが展開されていたら、一部のトップチームだけに優勝のチャンスが残されているような現在のグランプリとは、大きく違った潮流があったかもしれない。F1もドライバーのサラリーキャップ性でも導入するのは、どうかと考えるばかり。
 
 
 ワールドカップの悲劇
 
 F1には、なぜかワールドカップ開催の年に大きな悲劇が起こるというジンクスがある。70年にはヨッヘン・リント。リントはその年、チャンピオンを獲得。死後チャンピオンとなった唯一のレーサーとなった。74年にはピーター・レブソン、78年にはロニー・ペテルソン、82年にはフェラーリの伝説的ドライバー、ジル・ビルヌーヴ、それとリカルド・パレッティ、86年にはセナの同僚でもあったエリオ・デ・アンジェリスがそれぞれ帰らぬ人となっている。90年こそ死亡事故はなかったが、94年の予選でラッツェンバーガーが、また決勝ではセナも同じ道をたどった。
 
セナが生きていたら、その後のグランプリはどんな結果に変わっていたのだろうか。シューマッハーの偉大さは少しも変わるものではないかもしれない。だが、シューマッハーのチャンピオン獲得回数がここまで伸びていたか、シューマッハーの勝利数がプロストを上回るまでになっていたのか。10年という歳月が経った今、思わず空想してしまう。世代を超えたセナとシューマッハーのバトルをもっともっとこの目で見てみたかった。
 
SF的な発想であることは百も承知だが、この世ではないどこかの別次元の世界では、セナの活躍が長く続くシーンが存在したのかもしれない。そこでは、セナはどんな活躍をしただろうか。ロータス・ホンダのセナが、マクラーレンのプロストを抑えてチャンピオンを獲得するシーン。まだ荒削りだったシューマッハーと「老獪な」セナのバトル。想像できるシーンは、山のようにあふれ出てくる。
 
 
 その別次元の世界で44歳になっているはずのセナはいったい何をしているのだろうか。今こそ、きっと多くのファンがこう思っているのではないだろうか。「セナに会いたい」。あらためて10年前に戻って捧げたい。
 
 
 
セナがウィリアムズ加入を発表「ウィリアムズ・ルノーのセナ」が再び!
 
アイルトン・セナ Ayrton Senna/A Tribute to the Legend
アイルトン・セナ / Ayrton Senna 伝説のF1ドライバー
セナの思い出 モナコGP 1984年 モナコマイスターの称号を得る
セナの思い出 ブラジルGP
セナの思い出 1988年日本GP セナとプロスト 同じチームで1位対決
セナの思い出 伝説のモナコGP 92' マンセルとの一騎打ちに勝利
セナの思い出/ヨーロッパGP ドニントンパーク ブリテッシュウェザーでの走り
 

space
HOMENews BlogsF1/90's YouTube | May 5, 2004 |  twitter Livedoor Buzzurl はてな Yahoo!ブックマーク人が登録
space


space Entries of this Category
space

  Next >> アイルトン・セナ / Ayrton Senna 伝説のF1ドライバー >> 

アイルトン・セナ 1960年3月21日 ブラジル・サンパウロ生まれ。モナコマイスターと言われた伝説F1ドライバーは、天才と呼ばれたが、天才はその命までも輝くほどに燃焼してしまう...»この話題を見る…


  Previous << レミパン(Mattherw's Best Hit TV:平野レミ) << 

レミパンは、マシューズベストヒット番組から生まれた?平野レミ愛用の便利鍋 ドゥ!レミパン 蒸し台付き イエロー(オリジナルミトン付き)を先日購入してしまいました。いや〜これひと... »この話題を見る…


space
space
Welcome to knowledgeBase  Blogs  ▲TOP